昭和44年05月20日 朝の御理解


 御神訓 一、信心の心得
 「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ。」

 こうしてお互い信心の稽古をさせて頂いております。こうしてお参りをさして頂くのです。そして教えを受けます。そこから初めて真の道が分かって参ります。信心のこうして稽古をさしてもらう。お参りをさして頂く。そして神の教えを受ける訳です。神様の教えを受けるそこから真の道が段々分かって来る訳です。ところがこうやってお参りをさして頂いておる。教えは頂いておってもその、真の道が分からない人がある。いつ迄たっても真の道に出ようとしない人がある。
 そうするとやっぱり知らぬも同然という事になりね、いわゆる「そういう人達のあわれさ」とこう仰るそのう。やはり神様を悲しませるような事でしかない事になる。皆さん思うてみなければいけませんですねぁ。本当にあの「神の教えをも、真の道も知らぬ人のあわれさ」とこう仰るが。金光教の御信心させて頂けばですよ、必ずこうやってお参りさせてもらう。一生懸命只拝む事だけなら、ここへ来る事はいらんですよねえ。拝む稽古だけなら、家でも山の中でもどこでも出来る。
 それはむしろ山の中あたりでの方がいいかも知れませんよねぁ。誰もいない所でお滝の水ども打たれながら一生懸命に拝む。拝む稽古が出来ます。ところが金光様の御信心はその拝む事が出来るとか、拝む事が上手に出来たから、その真の道の教えが分かったという事でもなからなければ、真の道に出るという事でもないのですから。どこまでも真の道に出らして貰う。真の道を分からして貰う為に、お互い教えを頂くというのであります。ですからどうでも教えが身について来なければ、真の道は分からんのです。
 これが真の道ですよとね言われただけでは、それは唯分かったというだけで、それを踏み行わなければ、やはり信心のない人のあわれさとこう仰っておられます、やはりあわれさという事になって来るのです。そこからね私は神の気感に叶うた氏子とこう仰るが、神の気感に叶う氏子にならせて頂くという事。やはり真の道を目指し教えを受けて、しかもその教えというのは、頂いても頂いても頂きつくせない程にあるのが、教えであり真の道だと思うのですねぇ。
 神の気感に叶うたらどういう事になるか。神の気感に叶うたら御理解の中にもありますように、先ず人間が出来る。いわばお道の教えを頂いて参りますと、先ず人間が出来る。そこひとつ思うてみなけりゃならんのは、自分というこの人間が出来ていきよるか。変わっていきよるか。変わっていきよらんなら早くここんところに気付かにゃいかん。もう本当にあのう自分がね少しずつでも変わっていきよるな、という事が分かる程々有り難い、素晴らしい事はないのですよ。
 自分が少しでも変わっていきよる事が。変わっていっておる自分とう者を見る時、私は初めて吾とわが心が拝めた時であり、本当に私は神様に手を合わせお礼を申し上げる。皆んなこうして、御神縁を頂いて信心の稽古をさせて頂いておりますが。まぁだから今日ここの御神訓の中から、分かして頂かなければならない事は、願いからお礼への過程とでも申しましょうか。願いの信心からお礼の信心への過程。教えを頂く人間が出来る、人間が変わって来る。今まで愚痴っぽい人が愚痴を言わん様になる。
 いらいらもやもやの強かった人が穏やかになる。今まで不正直であった人は正直になり、いわば狡い考えの人がです、まともな考え方が出来るようになる。そういうと時に本当にこの有り難い。それが分かる自分で。人間が出来て来る。もちろんこれは私は本当と思えませんし、というてお世辞でもないと思うのですけれども。昨日福間からおばさんが見えとられますが、その娘にあたります茂子さんと言うのがついて来て、昨日帰りましたが昨日来ておりました。椛目時代に何回かおかげを頂いておった。
 昨日帰るに当たっていろいろお話しをさせて頂いておる内に、おばさん言われるのに。あのう茂子が言よる。とにかく合楽にお引き寄せを頂いてですね、もうお母さんからいつもここの話は聞いとるですから。なかなか信心もそのうもう本当に毎日お参りしよる者のように詳しく分かっとる。だから若先生ととお話しさせてもらうのに。もうなかなかそのう分かりが早いというか、分かっておるというか、まぁいいとこ通らして頂いておられるんですね。それにそのうちょうど十年振りに私に会うたとこういうんです。
 椛目に十年前に来ておるんです。そしてびっくりした事はね。このお広前がこんなに綺麗になったという様な事ではなくてですね「先生が変わっておられるという事は、年を取ってという事でもあろうけれどもね、こういう言葉を使ってある。「もうとにかく変わっておられるも変わっておられるも、神ゝしい迄に変わっておられるのに驚いた」ちゅう。これが一番口じゃった。私はひとつ神ゝしい迄に変わったとは、自分でもそうは思いませんけれどもね。けれども私はこれはあながちお世辞だけじゃない。
 私は自分でそれを思います。何故って今私が言う変わっていきよる事の有り難さ、変わっていきよる自分その事の。教えの素晴らしさという事をですね、これに頂いていきよる事だけは事実なのですから。皆さんは毎日こうやってね、面接していきよるからいっちょん分からんですよね、いつも傍におる。皆さんだってそうかも知れませんよ。少し遠くから離れてみると、皆さんも随分変わられたなぁとこういうふうに見えるかも知れませんし、又皆さんが私をご覧になってから。
 はぁ先生も変わられたなぁと、いう事になるかも知れんけれども。毎日こうやって膝附合わせた毎日を繰り返しておりますと、これがそのう分かりません。本当に私は神ゝしい迄に変わっていかなければいけない、金光様の御信心させて頂くなら。神様の教えが分かっていき、真の道が本当にま道ですねぇ真の道というのは。だから本当の道に出るなら、まともな考え方が出来る様になるのです。その事はもう、今初めていうておる事じゃないのけれども。
 その事が本当に自分の身について来たなぁという、ひとつの私の心の中に自分を自分を有り難いと思い、拝みたい思いがするのはです、最近私が度々申しますように、黙って祈っていけれるだけはでなくて、黙って与えられる様に「なったという事ですね。それはもういつの昔からその事は知ってもおるし、行じてもおったのですけれどもね。けれども昨年よりも今年私がいうておるこの事はもう段違いなんです。その事は同じであってもその事に対する、いわば段違いに自分でも変わっとるなという事が分かるです。
 変わっておるから有り難いのです。ですからこの調子でいよいよ変わっていくおかげを頂くという事はです、いよいよ神の気感に叶うた氏子としての完成を目指す事になるのです。恐らく完成という様な事はありますまい。恐らくはいわゆる未完成のまぁ永遠に続く事でございましょうけれども。けれども昨年よりも今年という様にです、変わっていっておる自分が分かる位な信心を頂きたい。その変わっていっておる自分が有り難いのですよ。そこでその例えば具体的な生活の在り方というか、物の見方考え方というか。
 それがどの様なふうに変わっていかなければ、真の道を歩かせて頂いておる、教えを受けておるかという事にならんかと言うとです。その教えのひとつ前の方で「やれ痛やという心で有り難し、今霊験をという心になれよ」とあります。そういう心になるよというそう言う心なって行けれる自分。私は金光様の御信心の焦点は、そこだと思うのですけれどもね。その心を目指す事だと思うです。本当な事が見えてくる。
 だから本当な事が考えられる。それが神の気感に叶うた氏子というのは、そういうふうな氏子だとこう思う。それには先ず人間が出来。夕べは合楽会でございましたが、もう1時頃まで時間のたつのを忘れて、もうこれで解散しましょうというてからも、次々といいお話しが出るんですよね。しんみりとした共励会でした。その中である婦人の方が発表しておるのにね。御主人は信心が無いのです。ところが息子さん達は皆んな毎日参ってくる。いわゆるお母さんの信心について来る訳です。
 それに主人が申します事に「信心するようになったけん、お前はそのう弱くなった」とこう言う。だから弱くなっちゃそのういかん。強うならにゃいかんのに弱くなった。それかと言うて主人が勤めておられる公務員の方ですから、務めておられますが「いろんな職場で難儀な問題が起きて来ると、必ず奥さんに相談される。奥さんはそれをおり次ぎをされてお願いされる。そしてお父さんこれはこうじゃないですか、あぁじゃないですかと、それを確信を持ってそれを伝える。
 偶にはお前のおかげであぁいう時こういうふうに、切り抜けられたという事たぁお前のおかげだと言われるらしいのだけれども。それは有り難いけれども、信心すりゃ人間が弱うなる。言うなら打ち向かう者には負けて、時節に任せよと言った様なものがここに教えが入っていくですからね、それに対立したり対抗したりしてしてからいわん訳ですよ。ですからやはり一見弱くなる、信心すれば弱くなるというように見えるのですけれども。それは弱くなるのじゃなくて和らかくなっていきよるのですよ。
 ですからあのう例えばお父さんが本当にびっくりされたり、困られたりさぁどうしようかと言われる時にです、あなたが例えば一言いうてあげられるとですそれが力になる。そして後でお前のおかげでと言われるという事は、それは決して弱いという事じゃないという事が分かる。しかしもっともっと弱いのじゃない。和らかに家内がなっていきよるんだという事を、見せていけれるだけに教えがまぁちっと身に入っていかなければいけませんなと話した事ですしたね。
 信心というのは確かにね、さぁ火だからと言うて、火に焼けるような事もなからなければ。さぁ水だと言うて水に溺れる事もなからなければ、流される事もないのが信心なんだ。ですから信心の無い者信心の薄い者は、さぁ火だと言うたらもう慌てる。さぁ水だと言うたらもう流されとる。信心させて頂く者はそれが無い。そういうところが出来ていきよんなさるとですねと言うて、話した事ですけれどもね。お互いの信心させて頂くその心がです、弱くなっていくのじゃない。
 やおうなっていきよる。いわゆる和らいだ心、和の心ですね。そういう和らいだ心をもって見る、信心の喜びの心をもって見て来るところからです、やれ痛やという様な事に当たってもです、そのやれ痛やという事がですね。痛いけれども有り難しという事になってくる。しかも今霊験をよという心が出て来る。今霊験をよという心になれ。それが例えばですとっさの場合でもです、「あいた」と言う前に「有り難うございます」と言えれるようになるのです。
 私はそういう信心が出来ていきよるという事がです、教えを受けておる値打であり、真の道に出らして頂いておる。言うならば御利益だとこう思うですね。信心の御利益とこういうのは。信心しておかげを受けていくという事はですね、只信心しておかげを頂いていく。一生懸命拝んでおかげを受けていくと。お願いして頂いたらこういうおかげを頂いたというおかげがですね。言うならば何十年続いても。だからここでは真の道を知らぬ人のあわれさであり、神の気感に叶うたという様な氏子ではない事が分かるです。
 教えが身に付いていく。そしてそこから初めて教えを行ずる喜び。教えを受ける事によって心が和らかになる。いわゆる人間が変わってくる。そしてさぁ火だ水だという時でも、火にも焼けなければ水にも流されんで済む、強いものが生まれてくる。そこんところに人のあわれさとこう仰るが。あわれさではなくて。ようもそこ迄育ってくれたなという神様の喜びがあると思うのです。何十年私は信心しても実はこげなおかげを頂いた。実はこげなおかげを頂いた、いう様ないわば信者は沢山有りますけれどもです。
 神の気感に叶うた氏子というのは少ないと仰る様に、確かに真の道を求め求めして進め信心を進めていく、氏子が少ないという事が分かります。真の道を進めていくという事は、どういう事になるかというと、やれ痛やという時にです、そのやれ痛やという心で有り難しとお礼を申し上げれる心が生まれて来る。神様はこの様にして私をお育て下さってあると、本当のところを分からして下さる。真の道を分からして下さってあるんだと、分からしてもらうからね、今霊験をよという事になってくるのです。
 そういう心にまた霊験ですねみかげ、霊験が受けていかれる訳なんです。そういうおかげの受け方です。神の教えも真の道も知らぬ人のあわれさとこう、いと簡単にこう信心の一番大事ようなところを、この様に教えて下さってありますがです。神の教えも信心しとっても何十年しておっても分かっていない人。いやその神の教えの一言も行の上に現せない、自分のものになっていない人。これではやはりあわれな事であります。人間が変わっていかない。教えを頂かないから人間が変わっていかない。
 ですから例えばひとつの難儀な事が起こってきてもです、そりゃその難儀な事を難儀な事としてです、難儀な事としてお願いをするだけ。その難儀な事を例えばどうぞお願いしますお願いしますと言うて、お願いしておかげを受けてゆくだけね。これではいつ迄たっても神様にお喜びが頂ける、神様の気感に叶うた氏子という事じゃないね。例えば一年前ならばこの事をお願いであったろうけれども、そのお願いがですやれ痛やと言った様な難儀な問題がです。そのお願いの事がです。
 心からお礼が申し上げれるという信心。その事を通して分かしてもらう教えてもらう、そこを通らして頂くおかげでここが分かる。そこに有り難しという心が頂けるね。いわゆる願いの信心からお礼への信心への過程。ここを私はつぶさに通らして頂かなければです、信心の本当の有り難さというものは頂けない。そこがそれと分からして頂けるような道を、私は真の道と言う。言うならば難はみかげとこう仰るが。本当に難は難ではなくて、みかげであると分からしてもらうならば。
 そこにお礼の言えれる信心が出来てこなければなりません。そういう信心がですね。先ず教えを頂いて人間が変わってこんことには、そこんところが実感の伴った有り難いという事になってこない。そういう心になる事すらも出来ない。信心の稽古をさせて頂いておってですね。例えばそのやれ痛やという時には、もう難儀を感じておる時ですけれども。やれ痛やとすら思わない。もう即それを有り難しと受けれる心。三井教会善導寺の教会の御総代をしておられた、今その息子さんも総代をしておられますが。
 息子さんというても80になられますでしょうかねえ。岸さんという饅頭屋さんの、今の総代さんのまいっちょ上のお父さんです。岸さんという。岸エイゾウさんでしたかね。方が善導寺の教会で御神縁を頂いたかれてから、段々教えが分かっていって、自分の持病であった脳病から救われなさった話しが有りますよね。それがやれ痛や今霊験をよという心なんです。それをやれ痛やという事よりも有り難いの方が先に出た。あのお庭のところにバラですね。ばらが門のようにこうしてあった。
 開き戸をこう開けられたとたんに、それがひっかってからバーンとこう撥ねたんです。はねたのが自分のこの頭に。非常にちょうど堤さんぐらいに、頭の薄い方だったですお若い時から。私子供の時から知ってある、それがここに頭にそののこったちゅうて、ピョンとはねて来たのが、黒うろした頭が刺さった訳です。ですからもうそれこそもう真っ黒い血がどんどん出たと言われるが、その瞬間ですね。「有り難うございます」というものが出ちゅうんです。そしてその有り難うございますが、そのまゝお礼に出て。
 「先生今日は広大なおかげを頂きました」とそのお礼に出られた。もうその場からねその長年の脳病がよくなったというお話しをね、私は子供の時に聞かして頂いた事があります。霊験にすぐ繋がるんですよ。それがやはり教えというものがね、ずっと身についていっておると咄嗟の場合にです「あいたぁ」と言う前にですね「有り難い有り難うございます」と言えれる訳なんです。こうなったら素晴らしい。それがどの様な事の場合であってもそう。まぁそこは稽古ですから「あいたぁ」と言うてもいいけれどもです。
 やれ痛やとこう仰る。けれどもこげんしてお取り払いを頂いておるという様なですね、お礼心が次には出て来る様な信心。そういう私はおかげを頂かして貰いたい。「神の教えも真の道も知らぬ人のあわれさ」と長年信心さして頂いとっても教えも身につかない。それゆえには真の道を踏んでいかない。やっぱり信心の無い者と同じに不平も言や不足も言うね。愚痴も言ゃ言わば根性の悪い事も言うておる。これでは真の道に出ておるという人ではない。これでは信心はしておっても神様を言わば悲しませるだけだ。
vそこで私共は神の教えを本当に頂かしてもろうて、真の道を歩かせて頂くという信心。そういう信心をさせて頂いておると、その答えとしてです「やれ痛や今霊験をよ」という心が、生まれてくるんだと。そういう心が自分の心の中にいわば、備わって来るとか頂けて来る時です、初めて信心させて頂いておる者の幸せ。言うなら神の気感に叶うた氏子としての幸せが約束される訳です。ですからそういうおかげをひとつ目指しての、信心にならなきゃならんと思うですね。
   どうぞ。